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埴谷雄高(はにやゆたか)

埴谷雄高

 作家。本名 般若豊(はんにゃゆたか)  明治42(1909)年~平成9(1997)年
 主な著書『死霊』『闇の中の黒い馬』『不合理ゆえに吾信ず』など。

 明治42 (1909)年12月19日旧台湾新竹で生まれました。戸籍上は、明治43(1910)年1月1日となっています。
 埴谷の祖父は、十四世紀はじめ相馬氏が下総から小高入りした時に従った家臣団の一人で明治維新以後、廃藩置県により、小高の岡田の土地を与えられましたが、与えられた土地を全て手放してしまいました。埴谷の父三郎は、税務吏員でしたが、当時日本の植民地であった台湾に赴任した後、台湾製糖株式会社で働き、先代が売り払ってしまった土地を買い戻しました。
 このときの「日本の植民地である台湾」で過ごした幼少期の生活体験のなかで「台湾人に対する支配者としての日本人」が埴谷の思想に大きな影響を与えます。
 大正12 (1923) 年、豊13歳の時、台湾製糖株式会社に勤めていた父の退職に伴い、一家は東京に移転します。
目白中学を卒業し、日本大学予科に入学します。この頃、演劇部に所属し「左翼演劇」に従事したことで、将来の妻となる伊藤敏子と出会っています。
 戦前の彼の青年時代は不敬罪、治安維持法違反などによって収監され、父三郎が苦労の末買い戻した小高の家産も売り払い、再び失ってしまいました。旧豊多摩刑務所に収監されているときにカントの『純粋理性批判』を読み、また結核を患っていたため、徴兵を免れることができました。
 戦後の昭和21(1945)年に雑誌『近代文学』を創刊し、『死霊』の連載が開始されました。
 昭和41 (1966) 年7月、墓参りを兼ねて島尾敏雄の長男伸三と長女マヤを連れて相馬野馬追を見物しています。このことは、エッセイ「無言旅行」に書かれています。
 埴谷雄高は、小高町に居住したことはありませんが、相馬武士の末裔であることの誇りと、その墳墓の地に対する断ちがたい執着を持ち続けました。このことは、「ハイマートロス」「祖父の墓」などのエッセイからうかがうことができ、曽祖父、祖父の墓も岡田に残存しています。また、小高町岡田字山田315番地を本籍地として、終生変更しなかったことにも表されています。
 平成8 (1996)年、浮舟文化会館内に埴谷・島尾記念文学資料館併設の計画が進められ、彼の小高に対する熱い思いが、いま記念館に飾られている彼の揮毫(きごう)になる「雄高は小高より發せり」という言葉に、単なる語呂合わせとは言えない真剣な思いが込められています。
 平成9(1997)年、脳梗塞のため死去しました。生前取得していた青山墓地に葬られ、そのお墓のすぐ隣には、相馬家のお墓があることは、特別な因縁があると言えます。

参考資料『おだかの人物』、『埴谷雄高作品集13巻』

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