島尾敏雄

作家。 大正6(1917)年~昭和61(1986)年
 主な著書
 『死の棘』(第11回文部省芸術選奨受賞)『長編 死の棘』(第29回読売文学賞、第10回日本文学大賞受賞)『出発は遂に訪れず』『日の移ろい』『夢の中での日常』など。

 大正6 (1917)年、横浜で輸出絹織物商を営んでいた父四郎、母トシの間に生まれました。両親は、旧小高町の出身です。
 島尾は幼い時から小高を「いなか」と呼んで親しみ、母トシの実家に遊びに来ては、いとこたちと遊び、祖母キクから寝物語に聞いた昔話は、島尾文学の原風景となりました。また、小高で多感な少女時代と青春を送った母トシの文学的素養も少なからず彼の文学の豊かな土壌となったといえましょう。
 このように小高へ行き来が多かったことから、大正12(1923)年の関東大震災時には、島尾が療養のため小高に来ており、その迎えに家族全員が小高に来ていたことで、震災を免れることができました。
 その関東大震災の影響で、大正14 (1925) 年に兵庫県武庫群西灘村に、昭和4(1929) 年には神戸市内に移り住みます。
 昭和6(1931) 年、神戸商業学校時代に『少年研究』、『峠』を創刊し、いくつかの同人誌に加わり遺憾なく文学少年ぶりを発揮していきます。
 昭和9(1934) 年に母トシの死に遭遇した折り、彼の文学への思いはますます強まり、昭和13年(1938)には矢山哲治らと『十四世紀』を創刊、昭和14 (1939) 年には『こをろ』に参加します。
 昭和18 (1943) 年、志願して海軍予備学生となる直前に、いわば遺書の形で自家本『幼年期』を刊行します。ここには小高を舞台にした名作「いなかぶり」の原作「お紀枝」そして彼の東北論の萌芽「東北について」などが収録されています。
 昭和19 (1944) 年、海軍少尉に任官し、第十八震洋特攻隊の隊長として加計呂麻島に赴任し、大平ミホと出会います。そのような中、昭和20(1945)年8月13日に特攻戦が発令され、出撃命令を待つ極限状況下となり、その時の体験は後に『出発は遂に訪れず』『魚雷艇学生』などの作品に結実します。
 神戸に復員後、大平ミホと結婚し、神戸外国語大学で教鞭をとった後、昭和27 (1952) 年、東京都江戸川区小岩に転居、定時制高校の非常勤講師をしながら執筆活動を続けました。
 妻ミホの心の病により、転居を繰り返した悲惨な日々が、『死の棘』に描かれています。
 鹿児島に移り、ミホの精神も安定し、作家活動もこれからというときの昭和61(1986)年11月書庫の整理をしている最中に脳梗塞により死去。
 死後は、旧小高町大井の墓所と加計呂麻島(瀬戸内町)に分骨されました。